
アフリカとヨーロッパの関係って、一言で言えば「大きく揺れ動いてきた歴史」なんですよね。時代によって立場も距離感もぜんぜん違っていて、それぞれの時代ごとに背景がガラッと変わってきます。ここでは、その関係の変化をざっくりと4つのフェーズに分けて見ていきましょう。
今の感覚だとアフリカとヨーロッパは“別の世界”みたいに思うかもしれませんが、古代の地中海世界ではむしろ交流が日常茶飯事でした。エジプト、カルタゴ、ローマ、ギリシャなど、地中海を囲む文明同士は互いに戦ったり貿易したり。
例えば北アフリカのカルタゴはフェニキア系の商人国家で、ローマとバチバチに戦ってたし、逆にローマ帝国は北アフリカを属州に取り込んでいたので、アフリカ出身のローマ皇帝(セプティミウス・セウェルス)なんて人もいたぐらいです。この頃はまだ、お互いが対等というか、上下関係という感じではありませんでした。
中世になると、交流の中心は軍事や征服というよりも、イスラム世界を通じた交易と文化のネットワークになってきます。西アフリカのマリ帝国やソンガイ帝国などでは、サハラ交易によって金や塩をヨーロッパや中東に輸出。中でもティンブクトゥは学問の中心地として知られ、アラビア語の文献がヨーロッパにも流れていました。
とはいえ、この時代はヨーロッパがまだアフリカに本格的に進出する前の段階で、間接的な関係が多かったのが特徴です。
ここがアフリカ・ヨーロッパ関係の最大の転換点です。大航海時代を経て、ヨーロッパ列強はアフリカへの関心を一気に高め、19世紀後半には「アフリカ分割」と呼ばれる大規模な植民地化が進みます。
ベルリン会議(1884-85年)では、アフリカの土地をヨーロッパ諸国が勝手に分け合うという衝撃的な出来事がありました。この時期、アフリカは“資源と労働力の供給地”として搾取される側に一気に押しやられ、政治・経済・社会のあり方まで大きく変えられてしまいます。
植民地化は単に経済的な搾取にとどまらず、言語・教育・宗教・法律までもがヨーロッパ基準に置き換えられていったため、現在に至るまで影響が残っています。この時代から、両者の関係性は「支配する側とされる側」へと明確に変わりました。
第二次世界大戦後、多くのアフリカ諸国が独立を果たし、政治的にはヨーロッパと“対等な国家同士”の関係が始まりました。
ただ、経済的にはまだ援助と依存の構造が色濃く残っていて、「ネオコロニアリズム(新植民地主義)」という批判も出ています。たとえばフランスは、旧植民地の通貨や軍事・教育に強く関与してきたし、イギリスやポルトガルも経済的ネットワークを手放してはいません。
ただ最近では、移民・気候変動・資源外交といった新たなテーマの中で、アフリカとヨーロッパの関係も変わりつつあります。両者はもはや“上下”ではなく、“交渉するパートナー”として関わらざるを得ない状況になってきているんですね。
アフリカとヨーロッパの関係って、実は「侵略」とか「被害」とかだけじゃなくて、時代によってかなりダイナミックに変わってきました。ときには交流の相手、ときには征服者、そして今は対話の相手――。その流れを知ると、国際関係を見る目もちょっと変わってくるかもしれません。